靖国神社に行ってきました。
いまの日本の安寧と、私の家族があるのは、
ふるさとのために、愛する人々のためにその尊い命を
犠牲にした、多くの人々の存在があればこそと思うからです。
敗戦の日のきょう、靖国神社は凄まじい人出でした。
炎天下に並ぶこと、約1時間半。
私の横には古いフィルム式カメラを携えた
老人がいて、時々思い出したようにシャッターを
切っていました。
ファインダーさえ埃にまみれていたそのカメラで、
彼は、何を、誰に、残そうとしていたのでしょうか。
ところで、以前から気になっていることがあります。
それは、「平和を守る」という言葉。
平和って、” 守る” ものでしょうか。
もし ” 守る” ものだとしたら、具体的にどうやって ” 守る”
のでしょうか。
「平和平和」と唱えていれば、平和が来るでしょうか。
それでは大乗仏教の念仏と同じです。現実社会において
まったく役に立ちません。
では、話し合いをすれば平和が来るでしょうか。
話し合いをしようとしても、聞く耳すら持たない狼藉者が
日本の周囲にいることは、いまや子どもすら知ってる時代に
そんなことを言えるのはやはり子どもだけでしょう。
私は、平和は守るものではない、と思っています。
平和はあくまで「現象」であって、モノではないからです。
では守るものは何か。
それは、ひとりひとりの家族であったりコミュニティであったり。
そしてその延長線上に国民があり、日本という国が
あると思うのです。
平和は、守った結果として生み出される”現象”。
これまで、あまりに安易に用いられてきた「平和を守る」
という言葉が、「平和」を安っぽいスローガンや念仏の類に
貶め、その尊さを半減させてきました。
そして平和に至る、大きな努力と多くの人々の犠牲を軽んじる
結果を招いてしまった気がするのです。
平和は、創りあげるもの、生みだすもの、そして維持するもの。
そう言い換えた瞬間、日本人の意識は大きく変わる気がします。
この文章は「とっておき!!のねごと。」からのものです。
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