ここのところずっと不思議に思っていることは、
最近「心霊写真」というものをとんと見なくなったこと。
デジタルカメラが普及し、携帯のカメラが当たり前になったいま、
世の中で撮影される写真の数は膨大なものになっています。
もし、心霊写真が一定の割合で”写ってしまう”ものだとするならば、
心霊写真は、世の中で撮影される写真に比例して
莫大な数が出現してもいいはずです。
しかし、現実には心霊写真を見る機会はほとんどなくなってしまいました。
毎年、夏になるとあちこちで放送されてた心霊写真特番も
ここ数年、見たことがありません。
霊というものは、フィルムや印画紙にしか写らないものなのでしょうか。
それとも「時代の変化」が、”捏造”を許さなくなったのでしょうか。
なぜ心霊写真がなくなったのか、その理由を知りたい気がします。
この文章は「とっておき!!のねごと。」からのものです。
http://www.totteoki.jp/negoto/
コメント
自分の写真でも撮ってみたら?
失礼写真なんちゃって・・・・
まったくもって失礼な。
秀さんったら、もしかして怖くて写真を
まともに見られないもんだから、そうやって
話をそらそうとしてるんじゃないですか?
見た目によらず肝が小さいんですねぇ。
生きてる人間が一番怖いんですってば!
特に女性が・・・・
それは秀さんの家庭のことでしょ?
アザラシ体型の愛人も含めて。
自分で選んだんだから仕方ないじゃないですか。
でも、こないだ自慢してたじゃないですか。
「我が家はキャバクラ状態だ。娘が下着姿で僕の上をまたいでいく」って。
まったく・・・・家庭の秘密をばらさないでくださいね。
とにかく、ワタクシこういった心霊モノとかに興味ありません。
全く平気で御座います。
男女群島の有名な心霊スポットである「北の赤瀬」と言う」岩礁で、
皆が嫌がる中一人で渡礁し大釣りしたくらいです。
男女群島の心霊スポットって、こんなところ(↓)ですか?
<a href="http://kurodai.info/kyofu/kyofu02.html" rel="nofollow">http://kurodai.info/kyofu/kyofu02.html</a>
どうせ秀さんのことですから、偉そうに言っても
真っ昼間に行って夕方前に帰ってきたんでしょ?
ウチの会社にも、いっぱい心霊スポットがあるんですよ。
まあ、この話は後日。
ここ知ってます。ヤスナガって有名なとこです。
無論夜釣りですからね・・・
私は幽霊に会ったことはありませんが、
なんとなく“感じる”ようなんですよ。
脚にまとわりつく感覚、って言うんでしょうか、
霊的ななにかがいそうな空間にいると、
そういう感覚になりますね。
昔、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が発掘中だったころ、
この遺跡に寄ったあと、伊万里の知り合いの
窯元を尋ねたらそこの奥さんがいきなり
“あんた、なにか背負ってきたろ?私気分悪い”って
言って塩を渡されました。
たしかにその日は肩が重いなぁ、とは思っていたんですが、
いわゆる霊感の強い人には私になにかが憑いているのが
見えるというかわかるんですよねぇ。
飲みすぎて肩が凝ったんでしょうね。
なんか秀さんのコメントのひとつひとつに
「なにがなんでも幽霊を否定してやろう」みたいな
意志を感じるのですが、そんなに怖いんですか?
じゃちょっと真面目に答えましょうね。
安芸門徒ってご存知ですか?
浄土真宗の信仰が強固なことで知られた門徒集団です。
特に江田島・能美島の門徒は正に原理主義者と
言われるくらい信仰心の篤いところで私は育ちました。
私の祖母も猛烈な安芸門徒で鯉幟とかお雛様なんて
全部「迷信」の一言で否定、お寺の日曜学校にも
通わされたものです。
霊的なものは一切否定、死は極楽浄土に「参らせて戴く」事
と言う考えが徹底してますからね。
従って死者の霊がこの世に現れて云々という考えは
全くこの教えにはないのです。
死んだら皆極楽浄土に参らせて戴くわけですからね。
ま、でも安芸門徒の教えが生きている世代も私くらいが最後でしょうね。
ですので、霊とか幽霊とかの話は正直言って心が動かされない訳なんです。
鯉のぼりやひな祭りを否定するっていうのもすごいですねぇ。
これらのどこが浄土真宗の教義に反するんですか?
私も母の実家が、母が出てから創価学会を信奉するようになり、
いとこが遊びに来て太宰府天満宮に連れて行っても
鳥居をくぐらない、お祈りをしないんですよ。
「違うから」って言って。
私たち普通の日本人って宗教的におおらかで、
八百万の神をどこかで信じてるって感じですから、
このときのいとこには強い違和感を覚えましたね。
このいとこの兄の結婚式もいわゆる仏式で、
すでに創価学会は大石寺とケンカしてましたから
学会員が木魚をたたいてお経を唱えるという結婚式でした。
僧侶でないので形式上は人前式なのかもしれませんが、
木魚で結婚式なんて、あれは貴重な体験をしましたねぇ。
要するに、親鸞聖人の教えのみが尊く、
阿弥陀如来以外のものに頼るのは教えに
反すると言うことらしいですね。
有名な「歎異抄」はもともとは異端の教えを
戒めたものなんです。
今考えると、なんかモスリムの原理主義みたいですね。
法事は50回忌まで行いますしね。
年寄りになると毎月の親鸞聖人の命日は
精進する人もいましたし、漁師も漁を
止めていましたよ。
昨年私の甥っ子が仏式で結婚式を挙げましたよ。
今は珍しいですね。
ほんと、イスラム原理主義か創価学会かって感じですね…。
実は父の実家も浄土真宗だそうなんですが、
そんな話は一回も聞いたことがありません。
実家に仏壇もありませんしね。
で、秀さんの結婚式は仏式だったんですか?
安芸と北陸の門徒は特に激しかったみたいですよ。
詳しくは知りませんが、江戸時代京都の本願寺で
安芸門徒が仕掛けた教義論戦があり、
勝利したとか聞いたことあります。
あはは・・・神前でした。
女房はカソリックです。正にポンニチ的でしょ?
でもね女房は浄土真宗とカソリックは
言ってる事が同じだと申しております。
カトリックの女性と神前結婚とは、日本人のおおらかさですよねぇ。
キリスト教というのも、実際はかなり原理主義的な宗教ですよね。
極端な言い方をすれば
「人間以外の動物は、人間のために神が作ったもの」
「この世界は人間が支配するためにある」という考え方。
C.W.ニコルさんは子どものころ、飼っていた犬が死んだとき
教会に行って「この犬は天国に行けるでしょうか」と尋ねたら
「動物は天国に行かない」と言われて神父をぶん殴ったそうですよ。
同じような経験あります。
小さいころ飼っていた犬が死んだので
畑の隅に埋葬し、お経を唱えてやろうと
祖母に数珠を借りに行ったら拒否されました。
「バカな事は止めんさい」といわれましたねぇ
私は素直な子供なので、ぶん殴りもせず、
ただ悲しくて泣いてました。
この純情な心は今もわたしの中に生きております。
あ、ホントにキリスト教と発想がいっしょなんだ…。
しかし、純情な心はいまも生きているのに、
外見はどう見ても立派なスケベおやじっていうのは、
歳月というものの残酷さを感じますよねぇ。
ふんだ!
南無阿弥陀仏を唱えれば全て許されるですよーだ。
結局は大乗仏教の論理でチャラですか…。
あ、いま「小乗仏教」って言っちゃいけないんですってね。
大乗から見た差別的な意味合いがあるとかで、
「上座部仏教」と言うらしいです。
この上座部仏教がいちばん残っているのがラオスでしょうか。
毎朝、僧の行列を街を練り歩き、街の人々はもち米で炊いた
ご飯を喜捨するという姿が普通に見られました。
ちょと最後に・・・・
阿弥陀如来が衆生を救う力を「本願力」と言いいます。
世によく言う「他力本願」ですが、他力とは阿弥陀如来の事なんですね。
今はちょっと違う意味で使われることが多いですが、
門徒の前でこれを使うと色をなして反論されますから、
くれぐれもご注意を・・・・