正月に欠かさず神社に初詣に行き、
十字架を前に永遠の愛を誓い、
死んだらみな”仏”となる。
これが、一般的な日本人の姿でしょう。
神道、仏教、キリスト教といった宗教の違いに、
あまりこだわりを持ちません。
しかしこれを、日本人がいかに「無節操」で「無宗教」であって、
世界的に見て恥ずかしいことかという風に語る”エセ文化人”がいます。
とくに、いまだに唯物史観にすがりつく連中や、
西洋文明至上主義のかぶれた者どもにとって、
こうした「無宗教で無知蒙昧な日本人」という説明は都合がいいのでしょう。
しかし、私たち日本人は本当に無宗教でしょうか。
私たちの日常は、たくさんの「祈り」に満ちています。
子どもの幸せを祈り、商売繁盛を祈願し、健康と長寿を願う—。
“誰に祈るか”ということは、実は問題ではありません。
私たち日本人は、日頃の生活のなかにたくさんの”神”を感じ、
漠然と、しかし確実に信じて生きてきたのです。
神社で柏手を打ち、結婚式で賛美歌を歌い、墓前で念仏を唱えるのは
むしろ日本人の”寛容さ”の表れなのです。
日本人は、宗教的対立によって殺し合った経験を持たない民族です。
たしかに、キリスト教をはじめ、為政者が宗教を弾圧した歴史はあります。
しかし、違う宗教を信じる者同士が憎しみ合い、殺し合うような
内戦状態に陥ったことは、日本の歴史上一回もありません。
日本人はお互いの違いを認め合える、おおらかな民族だったのです。
一方、世界は数千年にわたって連綿と、そしていまこの瞬間にも、
宗教をめぐって殺戮を繰り返しています。
神の名のもとに人を殺すことが許され、憎しみが憎しみを呼ぶ暴力の連鎖。
そこには、寛容さなど存在しません。
いま、日本人の”宗教的寛容さ”こそ、
世界に誇るべき日本の最大の美徳であり、
世界が憧れる日本の “心” ではないでしょうか。
しかしいま、日本人が自分たちの”神”を忘れるとともに、
私たちの社会は寛容さを失いつつあるような気がします。
日本人は、日本を忘れつつあるような気がします。